怒りを通して

つい先日、ちょっと激し目の苛立ちを感じたことがあった。

何か意地悪をされたとかではなくて、
思想的というか、ある何か大切なことが蹂躙されたような、
そういう”出来事”を目にしたことがトリガーだった。

自分の価値観とか美意識とか当たり前と遥か遠くにいる誰かや何かによって
世界観というか自分にとって価値があるものが揺さぶられた。
ただ、とはいっても率直にいってそれによって”自分が直接的に被害を被る”ことはない。
でも、だけど、とはいえ、不思議なやるせなさを感じて、怒りというか苛立ちを感じた、
というものである。

詳細は割愛するので、伝わるような伝わらないような、
なんとなく不思議な感じの投稿かもしれないのだけれど・・・。

人はどこかで自分の価値観とか意見が正義の方に立っている、
または大多数がそう感じているとか思いたいものなのだと思う。
(そうじゃない人もいると思うけれど)

なので、明らかに”こちらがわに世論がついている”と思うことであっても(例えば今回のことみたいに)、今回、私が苛立っているとか怒っているということに対して、”そもそもこの怒りはどこからきているんだっけ?”とか”何に対して苛立っているのだっけ?”と問い直すようにしている。

論争などがあるとき、対立があるときは双方の意見をよく聞け、と賢者はいう。

それも一理あると思うが、私は”ひねくれ”ているので、宇宙から見たら(そんな視点などないのだけれど・・・w)果たしてどうかという風に見てみることにしている。

そうしたら、意外と”自分と反対意見”のほうが、宇宙的にはごもっとも!だったり、逆にこちらのほうが古い価値観に立脚していたり、またはなんらかの集団幻想のトリックにかかったりしているなと思うことがあったりもする。

喜怒哀楽とは人が人生で経験する主たる感情たちのこと。
そしてそれらは人生を豊かにしたり、ドラマにしたり、魂を成長させたりする糧であったりトリガーであったりするのだとも思う。
そうしたら、この怒というものはやはり、”ストレスを感じさせて、精神や体を疲弊”させるものというよりは、怒るということで、二律背反させること、対立構造を生み、そこでのやりとりや逆の立場に立ってみたりすること、または先ほども申し上げたように、より高い視座から物事をみてみることを学ぶための成長のギアであるなどとも言えそうに思う。
怒りは”穏やか”なものではないが、怒りとはすなわち起こり。
つまり、次のステージの萌芽であり、陰陽を統合させるための触媒、スイッチのようなものなのかとも思う。

今回、久しぶりに怒るということが人生に起きたことで、なにやら、次の視点が授けられたような気がしたし、また、先ほどの通り、怒りは起こりであるなら、なんらかの”次のステージの入り口”、それがバイブス的にも見え始めているようにも感じる。

怒りからの学び。
苛立つことによって始まる修練のステージ。

意外とそれって、人生を振り返ると、”大きな役目”、”大きな転機”になっていたりすることが多いような気がする。

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