主であること

この世界には自分より上位である”風”なことがたくさんある。

親、会社(上司)、などわかりやすいところをはじめ、

お金、土地のローカルなルールとか、
教義とかもそれに含まれるかもしれない。

今までは色々なことが不安定な時代だった。
疫病や飢饉。
体制の変化や支配層の転換など、
時代自体が”自分について考える平穏なゆとり時間”、それを個人が持つことが許されなかった。
そんな時がずーっと続いていたのが今までの人類の世界線だろう。

食料の供給システムとか市民の統制・シビリアンコントロールなど多少は”介入すべきところ”には介入しないと、人が普通に二十歳過ぎ、または四十過ぎぐらいまで生きることもハードだったりもしたのが今までのタイムラインなので、ある意味、”他者軸”でいきていくことになっていたのも、致し方なかったのかもしれない。

そういう時代が長く続いたので、親から子へ、子から孫へと、そうした”社会軸・他者軸”は伝えられて、すっかり他者軸世界になってしまった。とはいえこれはここ数十年のことでもなく、2000年ぐらいは続いている”精神構造・概念構造”のはずなので、この呪縛を解くのは一朝一夕ではなく、それこそ”半身を削ぐ”ぐらいの覚悟や気概が必要となるかもしれない。

そして、そういう時代が続いたことで”主格”が自分ではなく、
会社や組織や、色々なものを”上”に置く時代となった。

縄文時代にはなかったと言われるヒエラルキーや上位レイヤーの存在を強く感じる信仰。

人は”自分を常に安心安全のポジションに置きたがるもの”・・・そのため、
それら概念やシステムが私たちを安心安定を感じさせてもくれたりもしただろう。

が、今や時代は変わった。

いや、変わろうとしている。

主たるものは”他人・社会”ではなく、個人に切り替わろうとしていて、それは”好きなことで生きていく”という某動画配信プラットフォームのcopyや”自己責任”という言葉や、個の時代という言葉などに顕著に表れてもいる。

ただ、それは”会社に所属すること”を排斥するものではない。
また、公務に勤しむこと、公務員というポジションが
これからは無くなっていくということを意味するものでもない。

それぞれが”社会や風説によって作られたなにかに従い、他者軸で生きていく”というところから、自分自身のコア(好きなこと、確たる能力・センス・スキルなど)に気づいてそれを活かしたりしながら生きていく、というふうに変化していく、それが当世風の”自分軸で生きていく”ということだろう。

個々が相互にリスペクトされ、やりたいことをやって生きていける、

結果、この地球を最高に楽しむ時代へなっていく。

とても”いい世界線だなぁ・・・”と思うが、

ある意味これは、ある残酷な面を同時に内包しているとも思っていて・・・。
そしてその自分軸時代の暗黒面ともいえるところはこの項で伝えたいことの主題でもあるのだけれど、
それについてはまた次回!




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