Viva la vita -セルフケアを深める-
2022年4月28日
人は皆、生きていると”怖い経験”をすることもある。
小さい頃でも大人になっても、恐れを感じたことの一つや二つはあるのではないか。
事故、病気、暴力、暴言・・・〇〇バイオレンスとか、修羅場・・・とかその”原因”はさておき、それらによってできた”恐れの傷あと”みたいなものって、体の傷とは違って、実は見えないところに相当ながく残ったりもするものだ。
ただ、そういった”恐怖体験”はその傷自体も厄介だけれど、その傷とその周辺の経験・体験値が”これから”に制限をかけてきたりする!・・・というのが実は恐れ・不安・過去の傷の”ヤヴァイところ”なのではないかと思うのだ。
未来は明るい、未来は開けている、
未来には”なんだってできる!・・・
たしかにこれらは極端かもしれないが、未来の可能性に対して、”〜〜して怒られたらどうしよう”、といったふうに、過去の恐れなるものが”封印”をかけてきたりする。
・・・うーむ。
恐れとは、いつまででも人生に食い込んでくる、どれだけ厚かましい奴なんだ。
苦笑
さらに幼少期に感じた恐れ。
これは特に厄介だ。
なぜなら原体験自体を忘れていたり、封印していて思い出すこともなかったり、
または、”他の怖い体験”が上書きしていて、本来のコアとも言えるものをなかなか思い出せなかったりもするから。
・ ・ ・ ・ ・
さて、今日のテーマは
私も最近、こういった「恐れ」にじっくり向き合っているよ、という話。
いってみましょうー!
* * *
苛立ちの原因の影にあるものは
いきなりだが、普段生活していると、ふと”いらっとすること”がある。
「あーーーなんでそんなことするんだろ。」
とか、
「いやいやそれはないだろ」
みたいな、どちらかというと他者のあり得ない振る舞いに対しての苛立ちとか、
公衆通俗・マナーに関しての”!!”とか、そういうのが実はほとんどだけれど、
私も聖人君子ではないので、当然だけれど、いろいろなところで”苛立ったり”もする。
で、そこでポイントなのは、”別に法律を犯しているわけでもない”のに、
また、人によっては気にならないポイントかもなのに、なぜにそんなに”苛立ったり・気になる”のだろうか、ということ。
色々と、本当に色々と考えてみた。
グルグル脳内を巡る思考。
心を丁寧にハッキング。
過去生とかまで引っ張り出して、
色々とサーチをかけてみた。
すると、やはりでてくるのは、
昔にだれかにやりこめられたとか、上からめっちゃ怒られたとか、過度に制裁をされたとか、
そういう”恐怖”の記憶・・・それが実は根底にある・・・ということだった。
(ここで冒頭の話につながる!)
恐怖体験が行動に制限をかける
本来はその時、その瞬間に出せばよかった声や感情。
でも出せなかった声であり、苛立ちであり、
悲しさや怒り。
そういうものが、何らかのトリガーをきっかけに
”苛立ち”という感じで出てきているのだな・・・と。
自分は怒られたのにこの人たちは楽々とやりやがって!!・・・・みたいな、なんだか恨み辛み・・みたいなものが、その姿形を変えて、イラ!!みたいな感じで、表出しているのだな、と!
幼少期の”恐怖体験”・・・・(心霊現象とかではなく)
それが原因で今のイラポイントが発動していることがわかれば、
”なるほどめぐりめぐって、そういうふうに過去の傷がうずいているのだな”と全身で腹落ちすることができた。
つまりは、自分が外的世界に”当時の自分がやりたかったこと”をしている人を見つけた時
もしくは自分が”抑えられている”なにかをしている人を見た時、きっとそのトリガーは発動して、いらいら・むかむかするのかもな、と、自分の中にある“要ケアなもの”がみつかった・・というわけだ。
(ここだけ書くとなんだかとても”小さい人”のように見える。まぁ、全然青二才なのだけれど 苦笑)
でもこれは”今見つかって本当によかった”と思う。
なぜなら、これから先に”怒られるとか抑圧される”と言ったことに対する恐れを解除しておくことで、単純にトライしようと思えることが増えたり、結果、できることも増えるだろうし、また、怒られるかもしれないというnotナチュラルな深層心理のバイアスが取り去られることで、体・心の萎縮も霧散されるのではと思うから。
怒られるかも・制約がかかるかも”と常にどこかで思いながら、感じながら、
何かをしていくのは当然だが、心理的負荷やしんどさを伴うものだ。
でも、恐怖を克服・というかきちんと解消しておけば、もうそういう”手枷足かせ”が自分にかかることはなく、不思議な圧を感じながら生活をすることも、きっともうないのではないかと思う。
なにより未来における可能性を潰されなくなった、
幅が広がったということに関しては、
喜びと嬉しさしかない。
幼少期の恐れを乗り越える
怖い体験によって”社会の常識を習った”ということもある。
いけないことをしていたから大人に注意された。
だめなことをしたら家族に叱られた。
しつけの一環で・・・。
等々。
こういうのは”あるある”だし、実際そういうふうに周りが見てくれていなかったら、きっととんでもない大人になっていたかも!?とか考えるとしつけとか周りの目があったことはとてもありがたい。
ただ、それが”トラウマクラスとか行動を過度に制限するもの”になっているのが少々問題なわけで。
苦笑
そのため、気持ち、感情、ファクト等のそれぞれの出来事に紐づけられた要素・因子を全部因数分解して、それぞれをきちんと脳内フォルダに振り分けてみた。
そうすれば、もう”怖さ”が行動を制限してくることもないし、
ある人を見たら”恐怖”を思い出す!ということもたぶんないはずだから。
・・・
こうして、恐れ、そして恐れによる”行動制限”をアンロックした今、
とても爽快で、いろいろな意味で息をするのが楽になったように思う。
だから、というわけではないが、今がなんとなく苦しい人は一度振り返ってみてほしい。
自分の中に”怒られないように生きる”とか”無難に、波風を立てないように生きる”というOS、いや、トロイの木馬(*pcのウィルス)が気づかないうちに勝手にインストールされていないかを。
もしそういう存在がうちにいることに気づいたら、
できれば、早めに”ウィルス対策”をすることも併せてお勧めしたい。
”〜〜怒られないように生きる”
ことから、
”自分らしく、自分が自分の意思で人生を楽しむ”生き方へ、
人はいつだって人生のOSを書き換えていけるのだから。
何歳からでも、
そして、いつからでも。
viva la vita.